第99話    「釣りと庄内」   平成18年02月26日  

庄内の文献に残されている最古の釣は宝永5(1708)庄内藩の分家庄内松山藩の藩主酒井忠豫(ただやす)公が奥方を連れて温海温泉への湯治の余興の一つとしての浜遊びの釣を行った事件が最初であった。ついで二番目に庄内藩士豊原重軌(しげみち)の書いていた個人的な日記「流年録」の中に享保元年(1716)「阿倍兄弟の誘いにて加茂に釣に行く・・・」と云う記録が出て来る。その次は庄内藩の酒井忠真(ただまさ)公が享保3(1718) 庄内松山藩の藩主と同じように温海温泉の湯治に出かけ、余興の釣で大勢の御家来衆を引き連れ、共の者と一緒に釣を行ったと云う事が温海町の旧家の古文書に出て来る。この殿様は在任中湯治を兼ねての釣りをなされている。当初は殿様が行った浜遊びの余興のお相手の釣であったとしも、釣りの回数を重ねる度に次第に釣の面白さが、御家来衆の間に認識され浸透して行ったものに違いない。

殿様の釣りが行われる以前から庄内藩士豊原重軌の様に少数の武士たちが、三々五々加茂磯に釣で出かけて居た事は間違いないが、武士の間にブームになるほどのものではなかったと云える。しかし、何度かの殿様の浜遊びの余興の釣が行われるに従って、浜の漁民から釣竿やテグス、針など釣具を調達していたのを次第に自分たちで竿や釣具などを都合し、各自持参する様になって来た事でも分かる。釣に興じた武士たちの間で、釣が盛んになると釣に様々の工夫を重ねるようになり、次第に漁師たちの職業としての釣りから遊釣としての釣法を確立するようになる。1700年以前の生活の為の釣漁師の釣から、殿様の浜遊びに始まった遊びとしての釣りは、1700年代の後半には釣れるものなら何でも釣る生田権太、大物釣り一辺倒の神尾文吉等の釣りの名人を輩出した。ここに到って武士を中心にした釣りは、完全に遊釣の釣と云う性格を持つに至ったものと判断出来る。これが、庄内の釣の始まりと云う事が出来る。

当初の殿様の浜遊びの釣では浜の漁師より釣竿から釣具一式のすべてを調達し、磯の小物中心の魚釣りを楽しんでいた。その内お相伴に預かった武士の間に少しでも大きな魚を釣りたいと云う欲望が、次第にエスカレートして来て、釣具の工夫や釣り方の研鑽に向かわせた。交通の不便な時代、釣りは野外での鳥刺しと同様足腰の鍛錬にもなった。釣りが盛んに行われていた当時の江戸の釣の情報は一部の江戸勤番の武士にしか伝わらなかったものと考えられる。そこで武士たちは地元の漁を職とする釣漁師達に釣りの技を習い、腕を上げていたようだ。一泊二日、二泊三日の遊釣の武士たちは、いつも磯に近い漁師の家などに宿泊している。そこで地元の漁師から釣や魚の生態について色々と学んだことは想像に難くない。彼ら武士たちは其れを基に遊釣ならではの技を編み出し、武士の釣と云う「釣の道」を編み上げ、釣りを武芸にひとつ釣道と云われるまでに格上げしてしまつたのである。

1770~1800
年の頃から、釣漁師の生活の為の釣と武士たちの遊釣そして釣道としての釣が緩やかに分化して行ったものと考えている。1770年代になると潮を見みる事に掛けては神業の目を持ち小物から大物まで釣れるものなら何でも釣り上げたという生田権太、その10年後1780年〜1820年になると大物釣一辺倒の神尾文吉と云う両名の釣の名人を輩出する。更に1800年代初めなると大物にも耐え得る細くて強靭な庄内竿が陶山運平の手により完成された事によって、遊釣としての釣の普及に一段と拍車が掛ったものと思われる。その結果庄内藩全体に一大釣ブームが起き、度が過ぎて釣で命を落とす事件が発生している。その為に藩庁より釣についてのきついお達しが出ている。大型の黒鯛を釣らんがために初冬の荒れた海に出掛け、海に落ち助けられたものの、その後自宅で亡くなった。藩庁に城下より出る時は必ず届出を出す事になっていたのであったが、それも出さずに釣に出掛けて冬の荒海に落ちたが元で落命とは不届き至極と云う次第である。結果はお家断絶のところ、藩の重役の取り成しで家禄の減棒で済んだ。がしかし、そこは体力の増進と云う目的も含まれている釣道である。上級武士から下級武士にいたるまで釣りの盛んな庄内藩ではそんな事件の一つや二つでは、釣が禁止と云う所まで行くことは無かった。

その事件以降釣を禁止した家もあったようだが、そんな事件が有ったにしろ一度火のついた釣のブームは一向に治まる訳は無く、益々エスカレートしている。殿様の釣では眼の下二尺の赤鯛(真鯛)を、武士たちは一歩下がって大型黒鯛を目指しての釣行をしている。幕末にかけては所謂天方の釣(豪快派の釣)が盛んとなった時期でもある。釣りで培った健脚ぶりは、幕末から明治にかけて起きた戊辰の役で思う存分発揮している。譜代の会津藩と同様に奥羽列藩同盟の一方の旗頭と見られていた為に、新政府に許しを請うたものの許されず止む無く戦端を開いた。領内から他藩に山越えで進入し、盛んに神出鬼没のゲリラ戦を展開し、常に官軍を脅かし終戦まで一歩たりとも領内に入れることはなかった。その間に西郷隆盛に直接交渉が功を奏し、辛くも会津藩の玉砕の二の舞にならずに済んだ。

明治に入っても釣を忘れられぬ元士族を中心とした、釣クラブがいくつか作られた。その他富を蓄積した富裕の商人や豪農達などを巻き込んで盛んに釣を行われるようになっている。彼らは鉄道という交通の便が良くなる、次の釣ブームの火付け役となっている。下々の一般庶民をも巻き込んでの釣ブームが起きる下地が整って来たのは、明治中期以降と云える。その後現在に至るまで職場単位はもちろん家族を巻き込んでの町内会での磯釣り大会が盛んに行われる鶴岡と云う町は、他に類を見ない土地柄であると云えるのではないだろうか。